ニーチェという喜劇:自立の限界と人類の生存戦略
1. ニヒリズムの再定義とニーチェの「虚像」
「ニヒル(虚無的)」という言葉は、一般に冷笑的な態度を指すが、その象徴とされるニーチェの本質は、むしろ「ニヒリズムという病」を克服しようとした過激な肯定論者であった。しかし、世間には大きな誤解が蔓延している。ニーチェをナチスの原動力、あるいは反ユダヤ主義の独裁国家信奉者と見る向きがあるが、一次資料を紐解けば、彼がドイツ国家や人種主義を激しく軽蔑していたことは自明である。
ナチスによる利用は、彼の妹エリザベートによる著作の改竄と、プロパガンダに都合の良い「超人」「権力への意志」といった用語の「つまみ食い」の結果に過ぎない。ニーチェ自身は、既存の道徳が「弱者が強者を縛り付けるための奴隷道徳である」と断じたが、これは心理学的な洞察であり、政治的なリアリズムから見れば、むしろ「道徳は為政者(強者)が弱者を統治するために課したフィクションである」という見方の方が、社会構造の実態に近い。
2. 「真面目すぎる男の喜劇」としての哲学
ニーチェを、カントやヘーゲルのような体系的な「哲学者」の枠に当てはめることには違和感がある。彼はむしろ、既存の価値観を外側から観察し、ハンマーで叩き壊そうとした「批評家」であり、その激越な文体は「エッセイスト」や「詩人」に近い。
彼の生涯を俯瞰すれば、それは「頭のおかしい、真面目すぎる男の喜劇を遠くから見て笑う」というのが正しい読み方ではないか。自らに「超人」という、人間には到底不可能な過酷な姿勢を課し、誰の同情も拒絶して孤高に耐えようとした結果、精神が焼き切れてしまった彼の晩年は、「おかしくて、やがて哀しき」ドラマそのものである。人間はそれほど強くはない。彼が否定した「弱さ」や「憐れみ」こそが、実は彼自身が最も切実に抱えていた「人間的な、あまりに人間的な」問題であった。
3. ベートーヴェン的意志とプルースト的停滞
ニーチェの思想に共鳴するのは、ベートーヴェンやロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』といった、孤独の中で運命と戦い続ける「意志」の系譜である。これらは「魂の自律」を求める者にとって、精神を調律するための砥石となる。
一方で、同時期に生きたプルーストの描く世界は、ニーチェの言う「余分な人々」の、どうでもよい社交界の心理描写に満ちている。この対比は、未来を切り拓こうとする「外科医」的なドイツ精神と、過去を解剖し記述することに執念を燃やす「解剖医」的なフランス精神の違い、あるいは階級による「時間」の使い道の差を象徴している。両者とも過去のある時点を理想化したが、歴史的に「昔の方が良かった」ことなど一度もなく、それはあくまで「今」という不条理に耐えるための知的な補助線に過ぎなかった。
4. 遺伝的ショットガンと「必要悪」としての弱者
ニーチェが忌み嫌った「弱者」や「哀れみ」という概念は、人類の進歩という観点から再考されるべきである。ダーウィニズムの観点に立てば、進化は合目的的ではなく、多様な遺伝的変異をばら撒く「遺伝子ショットガン」のプロセスである。
特定の環境において「優れた」とされる遺伝形質を発現させるためには、同時に(その時点では)「役立たず」とされる形質も必然的に生まれてくる。進化のコストとして、「弱者」や「不適合者」の発生は避けられない仕様なのだ。したがって、これらを排除することは、将来の環境変化に対する種の生存戦略を自ら摘み取ることになりかねない。
5. 結論:真面目すぎるプライドを越えて
弱者が「自分は弱くない」という無駄なプライド(ニーチェ的な強さの美学)に固執することは、皮肉にも為政者による搾取構造を強化する結果を招いてきた。「助けを求めない」「同情を拒む」という姿勢は、自己責任論による分断を生み、統治を容易にするからである。
真に考えなければならないのは、人類が進歩するために不可避的に生まれてくる「必要悪」としての弱者や不適合者を、社会システムとしてどう位置づけ、どう生存を認めるかという冷徹かつ誠実な設計である。
「人間はそんなに強くない」というリアリズムを前提に、過酷な理想に身を焼かれたニーチェの喜劇を愛でつつ、今この地平で「自立」の意味を問い直すこと。それが、卓越した知性を持ちながらも、人間的な脆さを抱えた先人たちの足跡から我々が汲み取るべき教訓であろう。

