三四郎
夏目漱石 「三四郎」読了
これは多分初読.少なくとも,1文字も読んだ記憶のある文字がない.森見登美彦著「四畳半神話大系」の東京バージョンみたいな印象だ.時系列から言うと,「四畳半神話大系」が「三四郎」の京都バージョンとすべきか.与次郎が小津,広田先生が樋口さん,美禰子さんが羽貫さんとか.話自体はクソ大学生のチャラチャラしたお話であるが,塾長自身が学生時代に通っていて,かつ住んでいた場所でもあるので,脳内に映像が鮮やかに映される.
そういえば,三四郎池のちょっと上の丘にあるベンチで昼寝をしていたら,東大病院にリハビリがてら通っているという,脳梗塞を患ったご老体が話しかけてきたことがあった(東大病院は本郷キャンパス内にある.めっちゃ立派な建物やで).病院の予約がない時も東大構内を散歩しているということで,学生である塾長よりも学内のことをよくご存知であった.曰く「教育学部のおねえちゃんは別嬪が多い」「文学部にはエアコンが入っていないから涼しくない」.あんた,勝手に建物の中に入ってるのか... 今はどうか知らんが,昔はその辺結構緩くて,土日になるとツアー客が三四郎池や時計台のあたりにたむろしてたし,時計台下の食堂には普段から学生でない人々がたむろしたり飯食ったり茶飲んだりしてた.まあ,一番たくさん税金が投入されてる大学施設なので,広く納税者に開放されるべきと考えることもできるな.
そのご老体の話はいつまで経っても終わらず,そのうち自分はソニー創業者の盛田昭夫氏を知っとる,という話をし始めた.どうやらそのご老体は若い頃に電気屋に出入りするような仕事をしていて,当時電気屋みたいなことをしていた盛田氏とも知り合いであったそうなのだ.「あいつは偉くなったもんだ」とか言ってたけど,じいちゃんも十分偉そうですぞ.ちなみに,その後も時々そのご老体が構内を散歩しているのを見かけた.完全に公園感覚で大学キャンパスを使ってたんですな.
以下,引用.
「吾々の書生をして居る頃には,する事為す事一として他を離れたことはなかった.すべてが,君とか,親とか,国とか,社会とか,みんな他本位であった.それを一口にいうと教育を受けるものがことごとく偽善家であった.その偽善が社会の変化で,とうとう張り通せなくなった結果,漸々自己本位を思想行為の上に輸入すると,今度は我意識が非常に発展し過ぎてしまった.昔の偽善家に対して,今は露悪家ばかりの状態にある.(中略)昔は殿様と親父だけが露悪家で済んでいたが,今日では各自同等の権利で露悪家になりたがる.もっとも悪い事でも何でもない.臭いものの蓋を除れば肥桶で,美事な形式を剥ぐと大抵は露悪になるのは知れ切って居る.形式だけ美事だって面倒なばかりだから,みんな節約して木地だけで用を足している.はなはだ痛快である.天真爛漫としている.ところがこの爛漫が度を越すと,露悪家同志がお互に不便を感じてくる.その不便がだんだん高じて極端に達した時利他主義がまた復活する.それがまた形式に流れて腐敗するとまた利己主義に帰参する.つまり際限はない.我々はそう云う風にして暮して行くものと思えば差し支えない.そうして行くうちに進歩する.」
現代日本は利他主義が復活しつつある感じなんだろう.
「人間はね,自分が困らない程度内で,なるべく人に親切がして見たいものだ.」
衣食足りて礼節を知る,と一言言えばええのに.