薔薇の名前
ウンベルト・エーコ「薔薇の名前」読了
数年前に亡くなった記号論学者であり小説家でもあるエーコの第1作である(記号論が一体どのような学問なのか,塾長には全く想像がつかない).
冒頭は現代(といっても20世紀後半)で,単行本にしては大変字が小さく,こんなので最後まで読めるんかと思ってたら,その部分はエーコの独白ということになっているらしく,少し後から中世(14世紀前半)北イタリアの山間にある僧院の話に変わり,そこからは普通の大きさの字になった.語り手は死を目前にしたアドソという老修道僧であり,アドソがまだ見習い修道僧だった頃にその修道院で起きた連続殺人事件の顛末を記憶を頼りに書き綴る,という形式になっている.
アドソは,アヴィニョンの教皇と皇帝の使節たちとの和解調停という使命を携えた師匠のイギリス人修道僧ウィリアムとともに,フランチェスコ会の立派な僧院を訪れる.そこの文書館にある本を巡って連続殺人が起きる.推理小説ではあるが,本書の半分は中世の神学論争である.ウィリアムも僧侶なのでそれに加わっており,アドソは師匠の聞き役であり,出来の悪い弟子役でもある.おそらくウィリアムがエーコ自身なのであろうが,彼一人だけが現代人の思考を持っているため,なんだか宇宙人のように見える.
僧侶たちの神学論争を読んでいると,当時の知識人と呼ばれる数少ない人々が,かように実り少ない議論に対して大切な時間を浪費していたことを気の毒に思う.そして,実のところ僧院内や教皇庁内での権力闘争や信仰(信念)のようなものは,現代においても大組織では前進の邪魔になっておることを痛感する.本書における高位聖職者たちの愚昧と悪意は,現代の政治指導者や企業家や宗教指導者の愚昧と悪意と同じ根を持っている.
同著者の「プラハの墓地」「バウドリーノ」と同様,本筋と関係ない蘊蓄がやたらと多く,塾長には全く理解不能な(何の意味があるのかさっぱりわからない)神学論争が続くので,結構ハードだった.次に読む本はもっと軽いものにしよう.
以下引用
「異端をつくりだすのはしばしば異端審問官である。」
異端審問だけでなく,人が人を裁く時に,裁く人にその資格があるのかを問われることがほとんどないのはどういうことなんだろうとよく思う.
「地獄というものは裏側から見た天国に過ぎないような気がしてくる。」
絵画における,図と地のようなものかね.
「世の中には権力を握るものたちの言葉と、見棄てられていく一方の者たちの言葉とがあるのだ。」
ラテン語と俗語イタリア語についての話で出てきたセリフ.言葉を世界とか経済に置き換えてもよかろう.
「反キリストは、ほかならぬ敬虔の念から、神もしくは真実への過多な愛から生まれて来るのだ。(中略)恐れたほうがよいぞ、アドソよ。預言者たちや真実のために死のうとする者たちを。なぜなら、彼らこそは、往々にして、多くの人びとを自分たちの死の道連れにし、ときには自分たちよりも先に死なせ、場合によっては自分たちの身代わりにして、破滅へ至らしめるからだ。(中略)真理に対する不健全な情熱からわたしたちを自由にさせる方法を学ぶこと、それこそが唯一の真理であるから.」
大真面目に神を信じている連中はまさにこの反キリスト的な精神構造を持っている.「神」と「反キリスト」,という対比を与えたのは中世の物語であるから仕方ないと言えるが,現代の言葉に翻訳すれば「神or政治的信条or国or他の何か大きな組織」と「愚者」という対比となるであろう.いつの世でも愚者が世に溢れ,人類の前進を邪魔する.