柔らかい個人主義の誕生
山崎正和「柔らかい個人主義の誕生」読了
高校時代に現代文の問題で山崎正和の「文化開国への挑戦」という文章を読んだ.大変直截的なものいいをする著者で,興味を惹かれて図書館に本を借りに行ったことを思い出す.問題文に引用されていた部分は比較的読みやすい部分だったが,それ以外はなかなか手強く,結局三分の一ほど読んだところで諦めた.ちなみに,この人の文章は旧仮名遣い・文語調で,それも面白かった.今回,文庫で出版された今出世作は,残念ながら新仮名遣いに改められてしまっていて,無駄な味わいが減ってしまっている.
この本は,黄金の1960年代と対比して1970年代をながめることで,日本社会が生産中心の社会から消費中心の社会に移行しつつあるということを論じており,書かれたのがバブル初期ということもあってか,未来への展望は希望に満ちている.日本が物質的に豊かになったおかげで,可処分時間が増え,それにしたがって個人の社会への関わり方がサロン的なものに移行し豊かになっていくであろう,という希望的観測が描かれており,バブル崩壊後の日本の惨憺たる有様を知ってしまうと,ああ,彼はいい時代に人生の良い時期を生き,日本が崩壊する前に死んでいったのだなあと思う.亡くなったのはつい三年前であるが,コロナ禍中にこの三十年の日本を振り返って彼は何を思ったのであろうか.しかし,彼の思い描いた消費者の姿は,塾長が思い描くような良き消費者の姿に近い.世の中を動かす力のある人々は,そのような未来を望まなかったのだろう.
「いわば,前産業化時代の社会において,大多数の人間が「誰でもない人」であったとすれば,産業化時代の民主社会においては,それがひとしなみに尊重され,しかしひとしなみにしか扱われない「誰でもよい人」に変った,といえるだろう.(中略)これにたいして,いまや多くのひとびとが自分を「誰かであること」として主張し,それがまた現実に応えられる場所を備えた社会が生まれつつある,といえる.」
残念ながらバブル崩壊後の政治家や経営者の方針で,一時期生まれつつあったこの機運はしぼみ,世の中は代替可能な誰でもよい人ばかりを求め,その結果代替可能な誰でもよい人が善き人であるような社会になってしまった.
「日本の産業界は第二次大戦以後,全般的に資本と経営の分離を特色としてきたが,(中略)とかく短期的な利益を求めたがる資本の要求に抗して,経営者は自己の見識によって長期的な経営方針を立てることができ,(中略)柔軟な人事管理を行なうことができた.利益は資本家のものではなく企業全体のものであり,支配は金力ではなく情報の力によって行われるという観念は,おそらく,日本の企業の団結を養ううえで小さからぬ鍵であった.いずれにせよ,このことは,日本に自信と生きがいに満ちた経営者と中間管理職を輩出させ,優れた人材を惹きつけて「人間相互間のゲーム」の場に参加させることに役立った,といえるだろう.」
今の若者には全く思いもよらないことかもしれないが,バブルが崩壊する前まではこのような社会が日本にはあった.しかし,超短期的な利益を獣のように求めている米国の大企業の従業員が,その獣のような仕事っぷりによってかつての日本社会の上位互換であるような職場を作っているように見えるのは皮肉である.
「繁栄は社会を平等化すると同時に,人間が直接に属している集団の枠組みをとり払うのであって,いわば個人を裸にして,ひとりひとりこの茫漠たる社会全体に直面させる.(中略)ひとは自分をこの世の誰とでも比較できることになり,一方,社会が完全には平等化されてはいない以上,彼はあらゆるところに不公平を探しだすことができるからである.」
これはSNSのような,ネット社会のゴミ溜を四十年前に予言してたということだろうか.