姉・米原万里
井上ユリ「姉・米原万里」読了
当然のことであるが,私の姉が故米原万里女史ということではない.本のタイトルでござる.著者の井上ユリ氏は米原万里氏の妹さんで,井上ひさし氏の奥様であるそうな.有名な人が有名な人と繋がりがあるんですな.
内容は,子供時代からの姉上や家族や友人知人との思い出を食いもんを肴に語る,というエッセイ集である.著者自身が北大卒業後に辻調理専門学校を出て料理教室やってるということなので,飯が話の種になるというのは自然なことなのであろう.米原姉妹が子供の頃は戦争が終わったばかりで,今の子供達が読んでも全く実感が湧かないだろうと思う.米原姉妹の父上は戦前戦中に地下活動をしていた生粋の共産党員で,戦後に彼女らがチェコに行っていたのも,日本共産党幹部である父上の仕事の都合であった.チェコのソビエト学校での話は米原万里氏の作品にもよく出てくるが,あの頃の東側の話は私には悪夢的なおとぎ話にしか思えない.この辺りのイメージはおそらくロストロとかアシュケナージとかショスタコーヴィチなどの,ソヴィエトを代表する(というか20世紀を代表する)音楽家たちの話を読んだことがあるからだろう.米原姉妹のチェコでの生活の話は,彼女らがまだ子供で大人の世界のドス黒さを周りの人々が隠してくれていたせいか,そんなに陰鬱な感じではない.
そういえば,この本の中にあったチェコやドイツやロシアの黒パンの話で思い出したことがある.学生時代,友人の知り合いと東京で室内楽をやろうという企画があり,あんま金がなかった塾長は各駅停車で京都から東京までチェロを担いで行った.乗り換えがめっちゃ多くて,そのうちのいくつかは乗り換え時間が1分とか2分とかだった記憶がある.全行程で6時間だか8時間だかかかった.昔は体力があったのだ.その電車の中でたまたま隣に座ったご老体が,チェロを持った塾長に話しかけてきた.96歳であると自己紹介したそのご老体は,戦争が終わった頃にハルピンにいて,そのままソヴィエトに連行されてシベリアで強制労働をさせられていたと話してくれた.私に話しかけたのは,ハルピンにいたころ,ハルピン交響楽団なるものが当地にあって,あんたの持ってる楽器みたいなのを弾いてるやつもいたよ,と伝えたかったかららしい.戦争末期のぐちゃぐちゃ状態で,音楽をやる余裕のある人々もいたのであるなあと驚いたが,よくよく考えてみれば京大オケだって戦争中も欠かすことなく年2回の定期演奏会を開いていたらしいし,音楽好きは音楽について執念深いものなのだ(しかし,コロナのせいでこの年2回の定期演奏会の伝統が途切れてしまった.塾長が京大を出る年にはオケの部室の火事で多くの楽器が焼け,このときも演奏会中止の危機に陥ったが,なんとか乗り切った).それで,このご老体がソヴィエトで食べていたという黒パンが大変美味かった,日本の黒パンは黒パンではない,ということを言っていて,これはまさに本書の著者が書いていることと全く同じなのだ.私は別にパンが好きなわけではないが,一度くらいその旨い黒パンなるものを食ってみてもいいかと思わんでもない.ちなみにこのご老体は他にもいろいろなことを話してくれた.そのほとんどを忘れてしまったが,ソヴィエトの建物は壁が石でできていて分厚いので,家の中はとても暖かいのである,と言っていたのは覚えている.最近は新幹線くらいしか乗らんが,各駅停車はそれなりに楽しいものだ.
「しかし、こどものとき、平等であるはずの社会主義で体験したほどの贅沢は、市民社会の歴史が長い西ヨーロッパには存在しなかった。しかもその贅沢は一般市民の目の届かないところにあった。やはりソ連はつぶれるべくしてつぶれたのだと思う。
高い理想をかかげて、皇帝や領主の圧政から人々を解放したはずだったが、新しい権力者のふるまい方のお手本が、自分たちが倒したはずの君主たちだったということか。」
高い理想を掲げて人々を圧政から解放したかったのではなく,自分が皇帝や領主のような立場になりたかっただけなのだろう.このあたりのことは,100年以上前にニーチェが「復讐と怨恨」というキーワードで社会主義を定義していて,なかなかに先見の明があることであるなあと感心したものである.