阪神淡路大震災

毎年同じことを書いている.しかし,年月が経つにつれて記憶がぼやけて,ずれて,抜けてゆく.

朝6時前だった.所属していたオケの京都公演当日で,普段なら爆睡している時間になんとなく目が覚めて,布団の中で起きるか二度寝するか迷っていた.すると下宿が揺れ始めた.少なくともそれまでの人生では味わったことのない揺れで,てっきり近所の活断層(農学部グランドの端っこに活断層があると聞いていた)がずれたのだと思った.とりあえず,実家に電話して生存を伝えた.災害が起きた時,電話線が混む前に電話をするのは鉄則だ.下宿にはテレビがなかったので,ラジオで情報を集めていた.しばらくは京都の寺で壁が倒れたとか,びっくりしたおっちゃんがこけて怪我したとか,割とどうでもいいニュースばかりだったが,震源が神戸の方で,そちらは状況が全くわからないという情報が入るようになると,これは大変なことが起きているのではないかと思うようになった.しかし,この段階で私が気にしていたのは,京都公演が無事に行われるのか,キャンセルになるのかということだけだった.どのタイミングで知ったのかはわからないが,練習場にメンバーが集まった時点でとりあえず京都公演は決行するとなったのであろう.なんとなく晴れている練習場近辺の風景が頭の隅に残っている.そして心配だったのが,当時チェロを習っていた先生が神戸在住であったこと.私は毎週のように神戸に通ってレッスンを受けていた.直接電話しても全然繋がらないので,当時通っていた大阪梅田のヴァイオリン工房に電話をし,そこでようやく先生が無事であったことを確認できた.同じく,チェロセクションのメンバーも神戸在住で,彼については演奏会が終わって打ち上げをやっている最中の真夜中まで安否不明であった.もちろん演奏会には出ていない.彼もチェロの先生も,周りの家がほぼ全壊しているような場所に住んでいて,運が良かったのか悪かったのか.

リハーサルが終わって,会場である京都会館近くの中華屋にチェロセクションで食いに行ったが,そこのテレビに映っている神戸の街はひどいものだった.燃えてるねん.喋る気にもならず,普段は騒がしいチェロセクションが大人しく飯を食っていた.演奏会本番は,お客も演奏者も少なかった.大阪などの,近隣の街から来る予定だったお客様が,電車が動いていないため来られないというのと,団員の中に先ほどのチェロメンバーのように神戸や遠隔地にいて会場に到達できない人々もいた.ガラガラの客席と,なんだかいつもと雰囲気が違う舞台上で,マーラーの9番を弾いた.曲はいつの間にか終わってた.指揮者は佐渡裕氏.

オケのメンバーに犠牲者はおらず(家族を失った団員はいた),京大の犠牲者は1名.私の友人知人では,高校時代の同級生が神戸で亡くなっていた.サッカー部で一緒だったけど,それほど親しかったわけではない.でも一応葬式には出た.雨が降ってた.親より先に死ぬのはあかん.

半月か一ヶ月くらい経ってから,仮設住宅に手伝いに行った.毎週行ってた神戸の街はボロボロだった.1,2年経ってから久しぶりに神戸を訪れたら,もちろんまだ傷跡は残っているのであるが,震災直後に比べると信じられないくらい復興が進んでいた.このペースを見ていると,東北大震災の復興ペースはどうなんだろうと思わざるを得ない.結局,投資に見合わないと国からも民間セクターからも判断されているのだろうな.

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